ファミコン用
『ファザナドゥ』
|
|
販売: ハドソン
|
プレイ時間 : クリア2回
| |
|
購入価格: 昔すぎて忘れた
|
執筆日: 2006年 10月24日
| |
■第1章 『誰に発信?』
『ファザナドゥ』は、
アクションRPGです。
エルフの一族である主人公をあやつり、
隕石が溶けこんだ水を飲んで強暴になったドワーフどもをけちらします。
当ゲームは、80年代のパソコンアクションRPGの金字塔的存在である
『ザナドゥ』の移植を前提に作られたゲームですが…
見てのとおり原作の片鱗も残していない代物です
というか中途半端に意識して残してある部分があるのが
余計に不愉快だったりしますが。 両者を知る一人としては。
製作サイドとしては、
ファミコンのスペック上「完全移植」が不可能なので、
このような形に収まってしまったという所でしょうか?
以前、
『低年齢層へのアピールを』との会社からの指示があり、泣く泣く…
という話をどこかで聞いた気がします。
(これは自分の思い違いかもしれません)
前者なら、開発スタート前のスペック調査が不十分という点で
自業自得といえます。
また、もし後者のようなことが実際にあったのだとしたら、
子供向けに作りながら、『ザナドゥ』という
子供たちに対するネームバリューがさっぱり無いタイトルに
固執する姿勢に
矛盾のようなものを感じます。
そもそも当ゲームの雰囲気は、子供が喜ぶ要素を真っ向から拒否しています。
(では大人は納得か? と言われるとそれもちょっと… 詳細は後ほど)
つまり、
『誰に向けて発信されたのか分からない代物』。
それが『ファザナドゥ』の、商品としての
致命点だと思うのです。
…と、最初から厳しい意見バリバリで始まりましたが、
次章で細かな良し悪しを見ていこうと思います。
なお、
パソコン版『ザナドゥ』と比較してどうこう…
については書かずにおきます。
「それ以前の問題」という気がするので…
■第2章『良し』
まずは、良いと思われる箇所から。
最初の城で出会う王様は主人公と面識があるらしく、
主人公の里帰りを喜んでいる様子。
セリフにももちろんそれは現れているのですが、
主人公が玉座に近づくと
スッと立ち上がって主人公を迎えます。
数多くの中世物のRPGが氾濫する世の中ですが、
一国の王が主人公を立って迎えるほど歓迎してくれるゲームは
ほとんど皆無ではないでしょうか?
それだけに、
『王様がそれほど私を頼りにしてくれているなら、
彼のために頑張ってみるか』と、やる気3割アップな心地です。
うまい演出だと思います。
当時のハドソンのゲーム、その大半に言えることですが、
軽快なBGMや、技術力に裏打ちされた
心地良いキーレスポンス、大きなキャラ…
そういう『ゲームの手触り』を決定する部分が、
実にシッカリ作られています。
こういう心配りは、プレイヤーのプレイストレスを軽減するため、
そのゲームの印象が非常に良くなります。
■第3章 『悪し』
続いて、ヤな部分を…
ノンアクションRPGの話になってしまいますが…
かの
『ドラクエ1』の場合、最初のレベルアップに必要な敵の数は
7匹 、
さらに
16匹 倒すことでレベル3になり、
『1.5倍近い体力のアップ』と
『回復魔法ホイミ』を身につけます。
お城で無料で魔力回復ができるので、宿屋にかける出費が0になり、
以降の冒険にもハズミがつく…
これは、プレイヤーの心にスタートダッシュをかけさせるために、
作り手が工夫した
バランス調整による秀逸な演出です。
一方の『ファザナドゥ』では、最初の敵の経験値が
20。
なのに、レベルアップに必要な経験値は
1000。
つまり、付近のザコを
50匹近く相手にしないと、
最初のレベルアップにすら辿り着けないキビシサ。
始まった途端に、やる気を3割そがれる思いです。
序盤はだいたい3種の敵が出るのですが、このうちの2体、
「トゲのはえた亀」と
「ぴょんぴょんはねる化け物」は問題です。
前者は、地面スレスレにしか当り判定が無いため、
魔法でしか倒せません。
また、後者は当り判定が上半分にしかないため、
着地時を狙うか、
相手のジャンプに合わせてこちらもジャンプしつつ剣をふる必要があるのです。
ゲーム全般を見てから改めて対峙してみても、
序盤にしてはテクニカルすぎる気がします。
前知識なしでこのゲームを遊ぶと、
パスワードによるゲームの再開で
違和感を覚えることでしょう。
次のレベル必要な経験値を半分ぐらいまで溜め込んでいたはずなのに、
それがきれいサッパリ消えている…
大量に溜め込んでいたお金も、
やたらスッキリした金額に減ってしまっている…
実はこのゲーム、アイテム以外に関しては
『レベルしか』パスワードで記憶できないのです。
つまり例えば、
レベル5になる直前まで経験値をため、
大量のお金を持った状態でパスワードを保存しても、
一度電源を切ってパスワード入力すると、
『レベル4になった時点の経験値と、レベルに応じたお金』
を持った状態で再スタートとなるのです。
当然、時間がもったいないので、
レベルアップするまでゲームを続けることになりますが、
止め時をゲームに縛られている感覚はなんとも不愉快です。
念願のレベルアップはしたものの、
どこが成長したのか分からない…
このゲームを遊んだ方なら、
序盤で一度は経験がある疑問ではないでしょうか?
攻撃力は変わらないし、
耐久力が上がった様子も無い、
魔法を憶えるわけでも無し。
なんとこのゲームのレベルは、
死んだときにその真価(?)を発揮するのです。
つまり、レベルに応じた
『再スタート時の所持金が上がる』わけですね。
教会でレベルアップするのは、いわば、
死んだときの保険。
工夫を凝らして生きのびて頑張っているユーザーには
少しも見返りが無い仕様なのです。
この
『パスワードの文字数を減らすために考案された苦肉の策』
としか言いようの無い不愉快な仕様の前向きな利用方法は…
ゲームを止める時は、
高価なアイテムを大量に買ってから止める。
あるいは、レベルアップした直後に
所持金があまり無ければ、迷わず死ぬ。
そんなところです
フザケルナ
世界樹と呼ばれる大木の中を延々のぼっていく…
という構成になっているようで、フィールド背景のほとんどが
紫やら
黄土色やら
灰色の霧やら、空が見えても
青黒一色と、
本当に気分が滅入る配色になっています。
そこへ
プロポーションがいびつなモンスターが
ギクシャク徘徊しているさまは、
『不快感』という部分に
のみおいて、正に
ホラー。
ゲームを中断して青い空の下を闊歩していると、
『あぁ、現実ってイイなぁ』としみじみ実感させられます。
■第4章 『批評に思う』
さて最後に… 今回は
異例中の異例として、
この『ファザナドゥ』に関する他人の批評を見て
僕が感じた
懸念をまとめてみようと思います。
『ファザナドゥ』に限らず、前々から他のゲームの批評でも
チラチラ気にはなっていたのですが、
この機に一度自分の意見をハッキリさせておこうと思って…
『批評』というものの
根源に関わる部分の話でもあるので、
批評というものに本気で取り組んでいるアナタには足しになる話かもしれません。
やや過激な表現もありますが、僕の
本気度の現れということで、
ご容赦の上、最後までお付き合いいただきたいです。
今回、『ファザナドゥ』の他人のレビューを読んでいて最も引っかかった単語。
それがこの
『思っていたより良かった』でした。
この単語からは、批評者の客観的な視点の曇りが嗅ぎとれます。
つまり、
『他人が悪評を下している』という前情報があるために、
評価のスタート地点から、意識しないところで
「擁護的な見方をする下地」が
できあがってしまっているわけですね。
これが1つ、問題。
次に、このように周りから批判されて孤立している物
(あるいは者)を見ると、
普段の生活で世の中から疎外感のようなものを感じて生きている人間は、
(その反動から)
孤立者に猛烈な愛着を感じて
過剰に擁護してしまう傾向がある点への懸念。
ひらたく言えば、
『お前も一人ぼっちかい? ふっ、俺も一人ぼっちさ。』
みたいな感じ? ぐへーー!
さぶいぼが立つほどの
幼児性ですね。
これに限らず、皆さんもネットをまわっていて、
『なんでここの評者は、世間で不愉快がられているゲームばかりを
ここまで必死に擁護するんだろう?』と不思議に思うことが
時々あるのではないでしょうか?
そういう時は、疑ってみたほうがイイと思いますよ。
評者が低評価ゲームに仲間意識を感じている可能性を。
また、こういう
少数派を気取る傾向のある人間には、
『他人と競合しない場所で、自分にしか分からない価値観を見つけて、
他の人間より己が優れていると思い込むことで
かろうじて精神バランスを維持する』一面があります。
(この心理は、10年ほど前のユーザーで言うところの、
『SNKの対戦格闘ゲームが、カプコンのそれよりも絶対優秀だと言い張る輩』
『セガのゲームは、他者のそれより絶対優秀だと言い張る輩』と、根源は同じです。
興味がある方は、心理学を軽ーくかじってみて下さい。 面白いですよ〜心理学。)
いずれにせよ、
『思っていたより良かった』という感想を
自分が抱いていると気づいた時点で、
批評に過剰に混入してしまった己の主観を注意深く取りのぞく。
レビュアーには、そういう
自己管理能力が必要だと思うのです。
『ファザナドゥ』が
パソコン版『ザナドゥ』に
端を発していることは皆さんご存知だと思いますが…
『当時のファミコンユーザーとパソコンユーザーの確執』
となると、若い方は首をひねるのではないでしょうか?
簡単に言うと、ファミコンユーザーは
『ややこしいマニアックなゲームばかりで遊ぶパソコンユーザーは、ヲタクだ』、
対するパソコンユーザーは
『グラフィックスペックの低いコンシューマ機で簡単なアクションゲーム
主体で遊んでいるファミコンユーザーは、おめでたい奴らだ』という
それぞれの思惑が、両者の間に
溝を作っていたのです。
パソもゲーム機も大方の家庭に行き渡った現在では考えられないことですが、
両方を買いそろえることができない者にとって、
自分の持っているハードこそが正義だ!
という意識に逃げるのは、
悲しいかな必然かもしれませんね。
(今だってあるでしょう? 世の中に。 形を変えて。)
さて、ここからが本題。
『ファザナドゥ』はたしかに
悪名高いですが、その悪評のメインは
『パソコン版と似ても似つかない』、
『なのに、ザナドゥのネームバリューを使った』の2点です。
後者には、僕も大きく頷けます。
が、
前者は、ファミコンユーザーには無意味な欠点です。
そのため、実際に遊んだファミコンユーザーは
「パソコンユーザーが騒いでいるほど悪いゲームではない」
との第一印象をまず持ちます。
さらに、普段から何となく抱いていた
パソコンユーザーへの反感が
自分でも気づかないうちに
『ファザナドゥ擁護』に拍車をかけ、
当ゲームを必要以上に美化してしまう…
実際、2ちゃんねるのスレッドや、ゲームの感想ページなどをまわってみて、
『ファザナドゥ』を
「隠れた名作!」とまで評する輩の文章を追ってみると、
その端々に
『お金が無かった頃の自分』の悲しさを不必要に正当化しようとする
怨念に似たトラウマを感じることがあります。
己の客観視もままならぬまま無責任な発言をまき散らす人間に
『批評』はしてもらいたくないものですが…
彼らの言動に、
ブキミさにも似た不快と憐れみを覚えます。
これは『自分の客観的視点を自ら曇らせてしまう』という点で、
先刻の懸念と、
根本・病原は同じといえるでしょう。
さて、長々と語りましたが… 上記の反面教師から、
『批評は結局、自分自身の冷静さを維持することが大前提』
ということが、皆さんにもなーんとなく分かっていただけたのでは、と思います。
人間の心というものは、本当につかみづらい。
自分の心ならなおさらですね。
僕たちは素人です。 しかし、
『より良いゲームと出会いたい』、
『より良いゲームを広めたい』という思いから、批評し、発信し、
それが作り手や遊び手に届くことを願ってテキストをおこす。
この行為は、自分の今いる社会を今より住みやすくしたいと
考え行動する意味で、
社会に関わる行動です。
そこには、同時に
責任も生まれます。
自分のテキストが、いつか誰かの人生に影響を与えるかもしれない。
だから僕らは、ゆらぎやすい自分の心と常に向き合い、
その時に出せる範囲で精一杯のテキストを書いていくべきだと思います。
情報について、
『ペンは剣に勝る』と言いますが、
『猿が拳銃を持つ危険』も忘れてはいけない。
そこらへんを自戒しつつ、
いい批評を書いていければイイなーと僕は思うので、
皆もそう思ってくれるとイイなーと僕は思うし。
戻る