監督 t .o .L .


『TAMALA 2010』


2002年 日本           執筆日:2004年 11月9日





■第一章 『奇妙作品』


なんともなんとも『奇妙』な作品です。

一見すると、『ちょと手塚治虫げなキャラデザの猫人間が
白黒画面でアニメーションする回顧作品』
ぽいですが、
『FLASHアニメ(多分)による独特の動き』
『ノーフューチャーな社会観』や、
バックに流れる『初期のシンセサイザーのようで、
その実、かなりクリアな音響』
など、
70年代の空き瓶に移しかえられた21世紀のウイスキーのような味わいです。
(コブラの寺沢先生的表現)



ストーリーがとにかく分かりづらく、
断片的な情報が時系列ゴチャ混ぜに映し出されるので、
シッカリ腰を据えていないとアッというまに置いてきぼりです。



それでも何とか記憶をたどって話をまとめると…

『一見愛らしい「タマラ」の正体は、数百年前にカルト教団「ミネルバ」が
大量誘拐した赤ん坊の人体実験の果てに生み出した扇動員。
彼女は理性のタガが外れかかった社会を持つ星系に自然と引き寄せられ、
そこでごく自然に住民の退廃心と破壊衝動を増幅させ、
混乱による社会秩序の崩壊を生む。

この混乱に乗じ、「商品」と「情報」による静かな住民支配を行うことで、
ミネルバ教団は勢力圏を広げつづける。

死ねない体となっているタマラは、故郷であり、
唯一「死」に至れる場所とされる「オリオン座」に向かって、
死ぬための旅を続ける。』


といったとこかなー?




上の文は、わざと「実際のストーリー」を調べずに、
画面から得られる情報のみによって解釈したものです。

…で、ネット上に置いてあった「実際のストーリー」は、次章のとおり。







■第二章 『本家ストーリー』


ネコ地球1436年イタリア・ヴェローナ、
魂さえ凍える中世の夜を駆けぬける郵便配達ネコ。

王国の統治下、日常の影で蠢く秘密郵便網で配達される一通の手紙。
気の遠くなるような過去に生きる、いにしえの邪教団から届けられる『破壊と再生』へのパスワード。
それは、踏みにじられた者たちが抱える絶望的な闇にこだまする、
砂糖菓子のようなことば。 『もうちょっと待っててね』

そして2010年、TOKYO・MEGURO-CITY。 世界は巨大企業CATTY&Co.により
ディラック算出GDP総計の96.725%をコントロールされていた。

権之助坂ラブホテル街をちょっと降りた左手、
高層アパート『メグロエンペラー・ドゥエ』に住んでいるメスネコ、タマラ
ナンパが趣味。 よくウソをつく。 口癖は『ファッキン』『シット』『ぶっ殺すぞ』。
あまりにも愛くるしい瞳に浮かぶ、パンクな絶望を封印された星々。

一歳の誕生日、にんげんのおかあさん(養母)にだまって
愛車ヴァンデンプラス・プリンセス(2008年ターボ仕様)で惑星間飛行に飛び立つ。
向かう星はオリオン座エデッサ星。 仕組まれたように隕石が激突。
革命前夜の星、Q星に不時着する。 あたりまえのようにナンパ。 デートと万引きを繰り返す。

タマラの出現とともになにかが少しづつ起動されていくQ星。
政情不安、テロル、通信の混乱、そして巨大企業CATTY&Co.がタマラの後を追うように市場に進出。
増え続けるCATTY&Co.の流通消費財『CATTYコーク』『CATTYトマトスープ』『CATTYジーンズ』。

住民たちの顔に浮かぶ熱に浮かされたような憔悴と期待。
Q星で何が起ころうとしているのか?
KIDSネコたちの夢にだけ立ち現われる、美しい異形のロボットネコTATLA。

エドワード・ホッパーが描いたようなヘイトストリート、
ドラァグクイーンがたむろするカフェ・イスクラの壁面に
スプレーされる落書“TAMALA/TATLAが来たらおしまいだ!”

タマラの出生にまつわる呪われたつぶやき“エデッサの赤い夜”。
絶望の果てで手招きするタマラの愛くるしいつぶやき。 『もうちょっと待ってるね』

タマラとは、何者なのか?








■第三章 『誰に発信したの?』


そういう話だったのか…


…だったのかなー? という感じが正直な感想です。


最初に個人的な感想を言ってしまうと、僕はこういう作品が大好きです。
いや、「表現方法が」じゃなくて『センス』が。

『白黒メインで簡素、それゆえに分かりやすい画面作り』や、
『世の中に広まり始めた当時の、シンプルなシンセサイザーを思わせる音響』は、
僕らが幼かった当時に刷りこまれた『時代(70年代)への郷愁』を呼び起こし、
作品の出来に関わらず心地良さを感じてしまうのです。

ただ、それは当然、作品自体の良し悪しへの評価とは異なります。




そこで、心地良さをなんとか振り払って冷静に見てみると…
この映画が、実は内容的には目新しいものを
何も含んでいなかった
ことに気付かされます。

『殺戮シーンによる、バイオレンス欲求の充足』
『軽ーいエロス』
『社会構造の実態が一部団体により操作されている事実への、ぼんやりした批判』
『自己あるいは他者による破壊が引き金となって起こる(かも知れない)
停滞した現状の変化(への期待)
などなど…

こうやって並べてみれば、たしかに、
時代に関わらずユーザーが普遍的に求める要素ばかりです。

簡素でかわいいキャラを使うことで、
『ハードな内容を、柔らかく錯覚させ』
ユーザーに食べさせることにも成功していると思います。




でも、ここで問題にしたいのは、
作り手は『どの世代に向けて、この映画を発信したか?』です。

登場人物たちの『空虚感』に共感できる、
20代前半を含む若い世代にでしょうか?
その割には表現が難解すぎませんか?

それとも、『作品の表現方法にノスタルジーを感じ』られる、
僕ら30代以降のユーザーに対してでしょうか?
だとしたら内容が、実際に社会に出て責任を負っている世代に
向けられたにしては幼稚すぎませんか?




この作品のようなストーリーは、社会に出たての、
そろそろ学生時分とは異なる「社会の仕組み」に気付きだした
『20代前半』(80年前後)のユーザーにこそ受け入れられる内容だと思います。

当作の表現技法が、そんな20代前半のユーザーに
適したものかと考えると、どうも違うように僕には思えるのです。







■第四章 『残念』


『あえて60〜70年代を模倣した表現』
『不景気な中で目先の安心感を求めようとするユーザーに、
現実を直視させるような厳しいコピー(「未来なんてゼツボー」だっけ?)を掲げた広報戦略』
『けものキャラ』
など、僕個人として嬉しい要素がてんこ盛りだった映画だけに、
全て見終わったとき、肩透かしでガッカリさせられました。




また、製作サイドは
『この映画単体で、自分たちの伝えたいものを伝えられる自負』
があったのでしょうか?

キビしい事を言ってしまいますが、
『難解なもの=崇高な作品』という思い込みに浮かされたり、
『設定を知っている自分たちの知識=ユーザーが持っている知識』
という勘違いに気付かないまま突っ走ってしまった事は、
本当に無かったのでしょうか?

難解な表現を否定する気はありませんが、
その割には映画内で語られている(と僕が考える)内容が、
思ったほど深くなかったのも、印象を悪くした気がします。


僕は、『作り手の悪い意味での若さ』をこの映画から感じます。


ユーザー全てが、設定資料に隅々まで目を通し、
ネットを駆け回って情報をかき集める熱烈なる
マニア(あるいは妄信的なファン)とは限らない。


その認識が物作りには必要だ、と僕は常々感じていますが、
この映画の製作者さんには、そのあたりをもっと大切にしてほしいと思いました。




期待していた映画だったのでかなり批判的な批評になった気がします。
他のユーザーの人は、この映画をどう思っているんだろう?

『TAMALA 2010』は、色んな意味で心に引っかかった、
僕にとって素通りしがたい作品でした。





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